信仰について

生きる

金曜の夜の投稿を、どことなく思想が混じった現状報告で放置してきたので久方ぶりに。

「信仰について」

東大で思想文化学科という一風変わった学科に属しており、その中でも宗教学という学問を学んだ。

この一文、表現だけでもいろいろと自分でツッコミを入れたくなるぐらい頭をこねくり回してしまうのはこの研究室にいたお陰だろう。

感謝。

折に触れて宗教とは何か、信仰とは何か、神とは何かという様な議論をしていたような記憶があり、そのころから信仰と何かを自問自答している。

信仰とは何か特定のものを絶対とみなすことだと私は解釈している。

それは当然“神”でも良いし“教え”でも良い。

もっと卑俗な場では

“これは絶対に間違っている”

“絶対にこうすべきだ”

“死ぬまでに絶対にここに行った方がよい”

などということも信仰に値するとすら考えている。

決してバカにしているのではなく、信仰は生きていく上でのセーフティーネットの役割を果たしているように感じている。

今でこそ宗教者が自死・自殺を止めるべく活動しているが、“信仰”と生きることにははるか昔から強い関りがあるように思われる。

信仰があるというのはとても大切なことで、それは自己を守り、健全な日々を送る糧になっているように思う。

一方私の場合困ったことにその“絶対”が無い。

そのお陰であまり怒ることが無いのだが、やはりセーフティーネットが内から出てこないので常に前向きでいるための理由を後付けで設けている。

その理由のことを私は「目的」と呼んでいる。

生きる(活きる)ための目的を自ら設定し、それを達成すべく目標を設定し、邁進する。

この日々はなかなかに楽しい。楽でないどころかかなり苦しいが、同時に楽しい。

何か一つでもこれは“絶対”おかしい、これは“絶対”に良いと想えるものがあるのはとても良いことだと想う。

とはいえ私にも一つだけしっかりと“絶対”と言えるものはある。

それは“絶対”などということは“絶対にない”ということだ。

人は死ぬ。これも人によっては“絶対”ではない。魂は絶対に生きていると信じている人もいる。

赤信号は絶対に守らなければいけないわけではない。事故にあうことや警察に見つかって罰則を食らうことを覚悟の上であれば守らなくても良い。

少し極論の様に聞こえるが、実際には結構無視している人は多く、それは上記の様なリスクをはらんでいることになる。

何か絶対と言えることはあるんだろうか。

※ただ、仕事をする上では結構めんどくさいなと感じてしまうのはここだけ(公の場)の話。

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