実績と現場とのバランス

社会を考える

私はこの上の二つに共に向き合っている人でありたいと思っている

何か行動をした先の人のことを考えずにとりあえずやってみるということは自分の経験を積んだりお金をかせいだりする分には何でもいいのだが、社会に生きる個として、民主主義で資本主義の枠組みに生きる人間としては

どのくらいの人数の誰がどういう影響を受けるのか

を考え、納得する前の行動をしたくないと考えているし、それが過去とこれからを結ぶ現代に生きる人間の責任だとすら考えている

端的に言って“外部環境が原因で努力できない人”がいない世界なら私は楽しけりゃいいと思うし、好きにやっていたいと思う。

決してそうではないのが現在。

この3日間、インドビハール州最大の祭日であるチャートプジャ(ディワリから6日後のお祈り)に参加させていただいた。

貧しい生活の中、1年の中で1番人々が敬虔かつ楽しんでいるように見えた。

この地では汚職と低収入と低所得と人身売買と劣悪な衛生環境などで簡単に人がいなくなる。

亡くなる方もいれば誘拐もあるし、売られることも多々あるようだ。

声を大にして言いたいのは、私と全く同じ時間、土地、地球、空の下で生きる全く同じ人類であるということだ。

そんなこと分かっていると援助・寄付をしている方は思うだろう。

果たしてそうだろうか。

妬み・ひがみ・成功・金額に惑わされてこの地で生きる人間の生活など省みず、善意の押し付けともとれる行動をしていないだろうか。

少なくとも私は観てきてしまっている。

私の考えでは全く好ましくない援助を多くみている。

その結果支援慣れしていたり、逆に適当な活動は外からの活動への期待を薄めたりする一方だ。

果たして目的は何だったのだろうか?

誰一人として最初は貧困を売りにして善いことをして承認されたいと思ってわざわざ行動をしていないのではないのだろうか。

現場の人の生活を、人生を、未来をどうにかしたいと熱く思って始めたのではないだろうか。

私はとにかくやってみなさいとは伝えない。

しっかり学びながら考えながら、現場を知りながら何よりも信頼されながら活動していくべきだと考えている。

現場は変わり続けている。

実績を持つと大きなことをしやすくなるだろう。

私は大学生の頃より成功が何よりも怖い物だと考えている。

当時も今も何も成功していないくせに何を言っているのだろうという感じではあるが、成功した、していると思ったり言われたりすることほど尊大な驕りをもたらすものはない。

しかしSuper30のAnand Kumarさんは“成功“しても現場と向き合い続け、いかなる甘い誘いも断り続けている。

コロナ前まで2003年より毎年30名、貧しくも才能とやる気溢れる若者を受け入れ、

教育・宿・食事を無料で提供し、理科系の最難関であるIITことインド工科大学や、東大へ輩出している。

2019年には実話、同名の映画、Super30も公開され、最後のシーンでは震えた。

物語の様な人物。

どこまでも謙虚でシンプルでユーモアのある方。三島由紀夫と共に私が尊敬する方。

三島と異なり、現存し、触れ合うことができる。

彼の在り方を見ることができ、会話を同じ場所にいて交わすことが出来ることに感謝した3日間だった。

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