死に方について

生きる

ヒトは死に方を考えることがある
(ヒト以外の脳みそは分からないのでヒトしか考えないとはヒトである私には分からない)

例えば家族に囲まれて死にたい、多くの人に偲ばれて死にたい、誰にも知られずひっそりと死にたい


そういうことを考え、言う人がいる。
更には人生は自分の死から逆算して考えて生きなさい、どんな死に方をしたいか、どんな人に看取られたいかを考え、そこから今何をすべきかを考えなさい

そんなことを言う人たちもいる。

私は全くもってこの辺りを理解していない。
実はとてもくだらない理想の死に方を持っているが、そんなのはどうでもいい戯言だと考えている。


どう死ぬかじゃない。
どう生きるかを真面目に考えるべきだと思う。

今、今日この時、自分も含めて誰にどういう影響を与えるかを常に考え、特にその影響が他人に影響を及ぼす場合、それはそのまま社会を、時代を、未来を創る活動になる。

問題はこの”誰か”の範囲だ。
往々にしてヒトは自分とその味方となっている仲間をこの範囲に入れるか、ものすごく大きくて理解が及ばないことを行動の正当化論理として活用している。
後者の例は環境問題に顕著だ。
その種や地球にとってどの様な影響があるのか、また一つの種をヒトのエゴで守ることによって他の種(特にヒトがかわいいと思わない、かつヒトが生きるのに不要だと勝手に考えられている種)に対して科学的にどの様な影響があるかなど考えもしないだろう。

私自身も行動することによる影響の先を悩み、考えることはある。
というかほぼ毎日悩んではいる。

その反対に分からない部分もあるが死ぬときに良かったと思うためではなく”今”やるべきだ、影響を及ぼすべきだ、その結果その人たちがこうなることは長期的にも短期的にも一定の、納得できる範囲でプラスだと想える。そんなことに向き合って生きている。

こんなことに日々向き合っていると、死ぬときのことを考える余裕などなく、別に自分という個体が消滅するときの状況など虫が死んでもなんとも思わないのと同じようなものだと思っている。

タイトルとURLをコピーしました