知れば知るほど、またそれに対して見て見ぬふりをしてはいけないと自分に対して言えば言うほど、それに対して何もできない自分がそこにいることに気がつき、小さな自分を殺したくなる。
それを防いで生きていくためには虚しさを埋める何かしらがいつも必要だ。もしくは見て見ぬふりを出来るように時間と労力を放出する何かしらがいつだってそこには必要だ。
時間と労力を使わせてくれ、世界中の問題を真剣に捉えたことをきっかけに死にたくなることなど忘れていられるような、何かしらを常に持っておく必要がある。
その様なことをあいつはいつも言っていた。まるで自分のことではなく、誰か他人のことのように。
あいつはいつだって元気な顔して茶化した挨拶を照れくさそうにして現れた。まるでそこには地中海に沈む夕日の様に自然で当たり前、しっかりと確実に沈みゆくその様を、消え去る様をまるで感じさせず、ただただそこに無邪気さと美しさだけを写した恥じらいと再会の喜びだけを抱いて。
あいつがあいつの心臓を止めないでいる間の世界はこんな感じだった。
あいつは平成の始まりとともにこの世に生を受けた。ちょうど東西冷戦が終結する間近だった。それをいいことにいつもあいつは、自分が冷戦を終結させたなどと嘯いて笑っていた。しかも誕生日が一緒というだけで日本の初代総理大臣である伊藤博文の生まれ変わりだなどとも言っていたな。今となっては全くの嘘つきで、自らの命を奪って周囲の人間を悲しませるだけのつまらない人間だったと思う。
よく勉強していた。論文を漁ることもあれば動画を観ることもあり、何か講習の様なものを受けていることもよくあった。そのたびにあいつはいつも怒っていた。何でこんなにも素晴らしい過去の事例研究があるのに現場の人間は無視して利益を追求しつづけるのかと、いつも吠えていた。
酒が回り、酔っぱらうと特に酷かった。決して人が周囲にいるときは酔っぱらって怒りを吐き出すことなどしなかったのだが、俺と二人でいるときやあいつが一人で帰るときにはいつも大きな声で世の中の不満やこうあるべきだということを叫びながら同時に大粒の涙をこぼし、鼻水を垂らしながら歩いていた。
いつだって誰もが許し合い、どこか遠い世界のことを直ぐ横にいる友人かの様に捉えて、自分の隣人であるかのように捉えてその人のためにできることを考えていた。そしてそれが出来ないと勝手に打ちひしがれ、大声を出して悔しさとともに涙を垂れ流していた。
あいつのそんな一面をどうにかしてやりたくていつだってそこには“必要な人”がいた。生きたくても死んでしまう人や勉強したくてもできない人、差別を受けている人、そんな人たちで溢れていた。
いつも言っていた。外部環境が原因で努力したくてもできない人がいるのは不平等だ。同時に成功したいかどうか、成功が何か、幸せがどうかなどどうでもいいと本当に文字通り会うたびにいつも言っていた。
ゼロからイチまでしか興味がない。
そこから先はそいつ次第であとは知らない。
サボりたければサボればいいし、逃げたければ逃げればいい。
ただそれができるのは選択肢がある人間だけだ。
絶望できる人間と絶望せざるを得ない人間とでは天と地の差がある。
悲しまれない当たり前の死。
そういうものが許せない。
そもそも東京大学を卒業しておきながらその栄光や名誉にすがることなく旅に出たあいつは、あの時点で命を絶つつもりだったのだ。文科省に入って教育を変え、日本人がもっと元気に才能を発揮し、活躍できる世の中を創りたい。そんなことを言って親から勉強させてもらっていたあの高校生はもうすっかり見る影もなく変わり果てていた。
ただ何か自己利益を追い求めて仕事をするぐらいなら世の中を適当に逃げ回ってそのうち生命が終わればいい。
それぐらいの人生観・死生観だったのだ。だからあまりに恐れを知らず、どこにでも入っていける。それはそうだ。あいつはいつ亡くなってもいいのだから恐れる必要などあろうはずもない。それは丁度、水と太陽の恵みを与えられた草木が一点の曇りもなく時間をやり過ごすような状態と同じ、一つの自然な状態だった。
誰がどこで何をしていてもそんなことは知らないし、他人に期待することなんて無駄だと思っていた。人間がもし賢い生き物で理性的な生き物なら、言葉を手にした五万年の間に一体何を学んできたというのだろう。人類の共存すら達成できないこの状況をどう説明するのだろう、人類知などというのは一体何を意味し、どのような価値があるというのだろうか。
人は人を殺すことがとても自然なことである。それはご飯を毎日食べ、睡眠し、性行為をし、子供を育てることぐらい自然な営みだ。そうでない歴史など見つけることは不可能で、いつの時代を切り取っても例えば一年という短い時間を切り取ってもどこかである人類の中の一個体が違う個体を殺している。
いつの間にか人類は神を創造し、その神にでもなったかのように地球を守るなどと嘘吹きだした。
人類が規定する地球環境などというものは人類の浅はかな知能で捉えた地球でしかなく、そこに勝手に自然対人類の二項対立を産みだした。観察の対象として切り出された地球という惑星はその内部で生命活動を営む一種に過ぎない人類から護られなければいけないらしい。
いつだって人類は虐げてきたものを勝手に守るべき存在に変えてきた。
自然・被差別部族・女性・小農・障害者・・・・
それらを過剰なまでに守るべきだとした。
大人の男性によって虐げられたカワイソウな存在として規定した。
その規定はいつだって政治、経済的な取り組みで、そこにはいつも大金が動いてきた。そして規定を創った人類が得をするような仕組みを維持すべく必死に論理を、もろすぎる論理を築いている。築くべきは倫理道徳であるということなど誰もが忘れてきている。
あいつはそんなことを言っていた。そして、そんなことを年齢を重ねれば重ねるほど、感じれば感じるほど、知れば知るほど、その責任を自分に置き換えることができない個体に対しての嫌悪感を強めていった。
同時にその被害者面をした個体が声をあげ、あたかもその被害者属性が多数存在するかのように振る舞い、課題として設定し、また金を稼ぎ、課題を増やした。このことに嫌悪を増幅させた。
それまで自分のことを被害者だと感じてこなかった人ですら、その声のせいで、課題として設定されたことがきっかけとなり、自らの現在や過去を課題だと設定し、それを解決するために悲惨な物語を恥も外聞もなく公に語り、絶対などという言葉を多用して課題を増やすための活動をしている。中には課題を増やすことで金を巻き上げる腐った根性の青年軍団すら出てきてしまった。
自分が特別だなどと言っておきながら自分と同じような人がたくさんいるという自己矛盾的課題を設定して解決しながらお金を儲ける。
特別な人間は数が少ないから特別でいられるのだ。
課題がいつからか乱立するようになったが、それは明らかに飢餓から解放され、寝る場所に困らなくなったことがきっかけとなっている。資本主義経済の中で新自由主義思想のもとで生きていくということは課題を新たに設定する必要が産まれ続ける仕組みの中で生きていくことを強いられるということだからだ。でなければ暇、自由によって殺されてしまうだろう。
そんなことはどうでもよかったのだろう。あいつは結局逃げる方法として死を選んだのだから。向き合って変えることを選択せず、逃げたのだ。
あいつはよく自分の喉から数センチ下の辺りをナイフで刺すという想像を繰り返していた。鎖骨の交差する真ん中あたりの柔らかいところを刺す。
死に方まで楽しようとしていやがった。日本男児、漢なら腹でも切ればいいのに。全人類の悲しみを自分のモノであるかのように悲劇を装って死んでいけばまだ格好もついたのに。
一番手っ取り早そうな場所を選びやがった。
いつも知性を大切にしろと言っていたな。知性とは知識とは似て非なるもの。知識は物事を知っていることであり、知性とはその知っていることを基にしてどの様に考えることができるか、頭を使うことができるかである。想像力とも言い換えていた。
当然知性を磨くにはその基となる知識は要で、それも蓄え続けなければいけない。そうでなくては消費しやすい情報のみをその背景、信憑性、意図すらも考慮せずに受入れ、思い込みと共に判断をする。
同時に影響の範囲についても頻繁に語った。何か行動をする際に、それは極めて小さな、ネット上に匿名で何かを投稿するときにおいても、その投稿を読んだ人間の感情や思考、行動の変化を想像せずに行うことに対して嫌悪感を抱いていた。
それはネット上に留まらず、とりわけあいつが携わっていた社会活動と呼ばれるような行動の影響についてはより慎重だった。
口癖は、「善いことをしたいんじゃない。課題を解決したいんだ」だった。この前者の想いで現場の受け手を無視した行動をする人間を、行動の影響の範囲を考えられない無知性な者として忌み嫌っていた。そういうやつに限って人々に訴えることだけが得意な人気者で、現場がどうなっているかなど知りもしない。
あいつは行動の場としての社会の定義は、“人間が二人以上存在する空間”と置いていた。その社会の集まりを人類は規模によって町、村、市、県、州、国などといった言葉を貼り付けて捉え、勝手に線を引いてそれを絶対的な所与のものでもあるかのように生きている。そう捉えていた。
もちろん名前を貼ることは物事の一側面を捉え、行動する上ではとても便利だ。だがしかし、名前を貼り付けた時点で前提として“それ以外の何物でもない”という状態になる。日本という国の名前が与えられた土地はもうロシアでも中国でもないのだ。そこで生きている人間も違う存在となり、日本人は中国人とは違うことになっている。
その名前をお互いに絶対的な所与のものだとし、その土地にあるものを奪取する当然の権利があると思い込むのもやはり自然な、そして愚かな流れだ。それは川の水が上流から下流に向かうぐらい自然で疑われにくいことである。だが実は川の流れはそれほどまでに簡単ではなく、所々蛇行するし、せき止められることもあり、逆流することもある。同様に奪取するだけでは危険だと気が付いた集団は今度は護ろうとなったり、元の状態に戻そうとしたりしている。なんとも勝手なものだ。
名前を貼ること。これがどれほど危険なことか。インドでは産まれた家ごとに与えられた名によって文明の発達以降被差別社会が所与のものとされ続けている。国同士が領土をめぐって争う。同じこの地球に暮らす同じ人類の命を簡単に奪う。人類はこれまで一度たりとも、なんなら一瞬たりとも誰も誰かを殺さない時を実現できていないのではないだろうか。
空を飛ぶ機械を発明し、片手で操作しながら世界中の情報にアクセスすることができる機械を使いこなしている人類は言葉とお金の発明以降、実はより冷淡に、実際の現実という感覚を抱くこと無く、同じ人類の命を奪うようになっているのではないだろうか。想像力という知性があまりに欠けている。人間の心に頼っていてもいつまでも上手くいかないし、理性に頼ることもあまりに心もとない。
最終手段は哲人政治を本気で今から目指すことではないかとさえ思われる。夢物語とされてきているごく少数の、場合によっては一人の哲人による統治。そんな気が狂ったようなことをあいつはいつも言っていた。
教育についてもよく記載し、話をしていたように思う。あいつはいつも教育のビジネス化に反対していた。それは決して教える立場の人間に対する報酬が少なくてもよい、すなわち価値が低いなどというものではない。
教育のビジネス化はあまりに無知性だからだ。まずほとんどの場合、教育現場での勤務経験すらない人間が少しばかりの状況と自分の体験を抽象化し、まるで教育全体の状態であるかのように定める。
そしてそこからお金を産むためだけに課題を設定する。
さらにそれに対する解決策、すなわち奴らの事業を、それこそが解決策で今までの取り組みを否定し出す。
先人が汗を流し、築き上げてきた現在を包括的に否定する。自らもその中で育まれた小さな個体に過ぎないという事実を完全に忘れている。これを無知性と呼ばずしてどうすればいいというのか。
お前が食うものに困らずに生命活動を維持できており、起業などという取り組みまで出来ているのはその土壌を整えてきた先人がいるからに過ぎないというのに。
教育に流行りなどというものが産まれた時点でもう終わっている。グローバル教育、IT教育、英語教育などはその定義、中身もろくに議論されずにとりあえず早く始めないといけない不安をあおられて開始しているようだ。
教育活動は常に未来に向けた活動であり、その受講者たちがそこで得た知を活用するまでには時間的断絶があるのが通常だ。しかしより悪いことに今はその断絶を無くそうと躍起になっている。これもまた流行っている。
エンターテインメント性を持たせた知識が身に付くとレッテルを付けた動画も溢れている。その中身が十分に検証されることなく。
倫理、道徳など持たず、人間関係の失敗、他人の痛みも知らないような人間が、個性を尊重され、技術を与えられ、披露と賞賛の場ばかりが与えられる。
嫌なことでもやってみる“忍耐”というものや他人を尊重して自らは控える“謙遜”といった態度は過度に軽視され、まるで前者は“時間の浪費”、後者は“無能”という烙印を押される始末だ。
あいつはいつも怒っていた。この世のほとんど全てに絶望していたと言っても決して過言ではない。だからこそあいつは資本主義かつ新自由主義かつ民主主義の偏りに辟易して一切を捨てる覚悟で東京大学卒業後に無目的の旅に出たのだ。
最大の不幸はその旅から無事に生きて帰ってきたことだった。東京大学卒業後に旅人という経歴は嫌でも目に付く。しかもその後は他人のためにインドと呼ばれる国で生きていたのだから尚更だ。
影響の範囲を定める以前に影響を与えてしまう状態になっていたのである。あいつの言うこと、することは嫌でも他人に影響を与えていた。あいつ自身も知性と理性と道徳を持った人間が増え、“外部環境が原因で努力できない人がいない”世界を実現すべく活動し続けた。
しかしその影響を強く受けた周囲の人間は大衆から少しずつ離れ、、生きにくさを抱くようになった。会社を辞めて悩むものが出たり、周囲に対して疑問を抱く機会が増えた者が出たりし、答えのない悩みを抱える人間があいつのせいで増えたのだった。
あいつは滅多に悩みを他人に相談する人間ではなかったのだが、このことについては打ち明け、相談してきた。一度相談するとその後は会うたびに酒に酔いながらいつも同じ相談を、深刻度と具体性が増大された形で持ち掛けてきた。
欲張りだったのだ。貧困現場の生命活動を維持することが困難で、そのコミュニティを変化させるための仕組み、作用が何もない人間のみに注力すればよかったのだ。
なのにあいつは周囲の人間全員の課題をまるで自分の課題の様に感じ取り、向き合って解決しようと努めていた。
そんなこと、できるわけないと分かっていながら。
具体的な暴力に訴えることなく、また死後の社会を他人に託す言葉を残すことなく死んでいったのには影響を与える怖さと人類への絶望という二つの要素があいつの心に強く残っていたからだろう。
そう。絶望はいつの時代、どの様な人間にとっても死に至る病として十分に機能するのだ。
後日談~回顧と出会い~
・・・・・・・
あいつが死んでもう五年が経った。残された俺は引き続き生命活動を続けている。話相手を見つけることもなく、時間だけを経過させていた。
三年前に仕事を辞めた。ソーシャルネットワークも全て辞めた。家族との連絡も全て遮断した。スマートフォンもパソコンも全て捨てた。この文章もペンとノートで今、雪山の麓にある浮浪者が集まる安宿で一人書き出しているところだ。
この宿はカナダの北部にある名もない集落にある。薪を割ったり、動物を狩ったりする手伝いをすることを条件に無料で泊めてもらっている。
冬はとても寒く、しかも長い。ただ、この場所で観ることが出来るオーロラだけは何よりも美しいと感じる。
この宿に来て丁度一年が過ぎた。きっと俺のことを知っている人間は俺のことを死んだと思っているだろう。
いや、もう俺のことなど忘れて目の前の生活を過ごし、成功や幸せを追い求めていることだろう。それでも家族はもしかしたらまだ俺の失踪のせいで胸を痛めているのかと思うと申し訳ない。
ただ、俺にとって唯一まともに会話ができたあいつがいなくなってしまい、もう誰ともうまく関係を築くことが出来なくなってしまったのだ。そんな俺が働いた会社、所属していたコミュニティ、通っていたバーなどではどこでも目立ってしまい、また影響を受けて悩む人間が出ていた。
そう、あいつが俺に打ち明けた、あの相談の内容そのものが、俺にもおとずれてしまったのだ。
俺はあいつの様に死ぬつもりはない。死にたければ死ねばいい。生きたければ生きられる世の中がいい。そんなあいつの言葉に踊らされることがとても嫌で、無論理に、無理性に、無知性に、ただ赤子が知らない人間に抱かれて泣くあの反抗の様に、なんとなく根拠もなく“死にたいけど生きている”状態に固執していた。
ここでの暮らしは意外と快適で、悪くはない。世界中から集まった十五人の浮浪者と共に、誰も互いの過去を探り合うことのない生活はとても快適だった。
日本、イタリア、アルゼンチン、メキシコ、アメリカ合衆国、韓国、スペインなど様々な国出身の人間がいた。
全員の共通点は仕事もお金もなく、それを手にしようともしていないことだ。
この宿は盗電した電気で付ける灯りとどこの誰が持ってきたかも分からない大量の毛布と飼っているのかどうかも分からない犬と、あとは特に何もなかった。建物はやたらとしっかりしており、地下と一階とで合計十二人が泊まれるドミトリーになっていた。
ここの宿主夫婦の暮らしも俺たち浮浪者と同様だった。そりゃあ誰もお金を払わないのだからそうなる。
奥さんはまだ四十ぐらいで愛嬌がある笑顔が可愛いドイツ人だった。一方旦那さんはいつも不機嫌で文句ばかり言っているイタリア出身の六十を超えた男だった。変な夫婦だったが誰も成り行きすら聞かない。
ここでは誰も過去を聞こうとしないし語ろうともしない。
俺がここに来て直ぐの一カ月後、日本人の女が来た。そいつは俺と結婚したがったが、当然俺は断った。
そいつを嫌いだった訳ではなく、むしろ異性としての魅力には十分溢れていたのだが、そういう関係性を求めること、他人との間にレッテルを貼ること自体が嫌いな俺は、その様に伝え、丁重に断った。
その女は分かったような分からなかったような、納得したような納得しなかったような顔をして宿から次の街へと向かった。
ここでの暮らしはいつもおんなじだ。朝起き、食べ物がある日は食べる。外に出て狩りや木こりができる日はする。狩に行く日は行く。そうでは無い日は一日中寝ている。
誰もが何も頑張らない。現代版の精神を病んだ人間たちの死を待つ人の家とでも呼べばいいのだろうか。
こんな場所でも何故かアルコールやドラッグには事欠かなかった。
宿にいるアメリカ人が月に二、三度街まで出かけて調達してくるのだ。
こいつはこの宿で唯一他の人との関りを持つ。ドラッグの売人をしながら自身もドラッグとアルコールを交換し、戻ってくる。
売ったドラッグの利益は全て元締めが持っていくが、そいつは対価としてドラッグとアルコールをいつも大量に持って帰ってくる。
俺はあまり強いドラッグは寝てしまいがちで、気持ちよく時間を過ごすことができないので好まない。
基本的にはほとんどタバコみたいな吸い物とウヰスキーを嗜んでいる。
ここには貨幣経済も国も貧困も富裕も格差も税金も医療もネットもない。
唯一アメリカ人のそいつが違法な形の物々交換をしているぐらいだ。
ここでは死も当たり前だ。ここでの暮らしも疲れてある日突然自殺したやつもいるし、病気になったら薬も医者もなく、年齢が上の人間は割と死ぬ。グリズリーに襲われて死んだやつもいたな。
それらの死を俺も看取り、埋葬をする。その日ばかりは全員が家族の様にその死者を弔う。
翌日には何もなかったかのように俺も含めた全員が“普通の生活”をしていやがる。
何もなく生きていた。
それから更に三年が経ったある日、日本人がまた一人やってきた。そいつの名前は菊と言った。男のくせに女みたいな名前だと思ったが、名前なんてどうでも良かった。名乗ってきたことが不思議に思うぐらいには俺の感覚もおかしくなっていた。
その菊と名乗る男は日本人の平均身長よりも五センチほど高く、恐らく西の方出身と思われる濃い顔立ちをしていた。左目の下には黒子があり、あごひげをはやしていた。
あいつによく似た見た目なやつだと思った。でもあいつは三十二歳で確かに俺の前で自決した。あいつのはずはなかった。もうあいつの陰と生きることは怖かった。俺も死ななければ恥ずかしいというような気がした。
菊はどうみてもまだ成人していない顔立ちだった。髭は生えていて眉毛は濃かったが、その顔つきはどう見ても十代後半ぐらいだった。
そこで俺はそいつに年齢を聞いた。菊は十六歳だと言った。あいつには子供もいなかったし、五つ年下の弟がいるとは聞いていたが十六歳ということはありえなかった。
何をそこまでこの菊という男に、偶然見た目が似ているだけの男のことをいまさら俺が気にすることがあるものか。
俺はその様に思い直し、適当な挨拶を済ませてベッドに戻った。もう誰かに思い悩まされることも、そいつを思い悩ますことも嫌でここに来たのだ。心をざわつかせるこの菊とかいう日本人男性には早々に出ていって欲しいと思った。
それにしても十六歳でここに来た奴は今までいなかった。義務教育を終えて直ぐに旅にでも出たのだろうか。だとしたらあまりに早熟か、不幸だったかのどちらかだろう。まぁそんなこと、どちらでもいいのだが。
今更転生の物語や数奇な縁などを期待もしないし、そんなことが起こったとしたら俺はまずその話を記述しないだろう。
あまりに下らないし詰まらないと感じてしまう。
俺にとっては久しぶりに日本語が通じて楽なコミュニケーションを取ることができると感じ、割と菊と共に行動していた。狩りの仕方、ここでは暗黙のルールが無いというルール、誰が何語を理解するか、ここまで教えていてまぁ教えることが特に無い場所だから俺がここにいるんだと思い直し、あとは説明を辞めた。
菊はここに来てアルコールもドラッグもしっかり嗜むようになった。別に守るべき社会もルールも無いので誰も咎めない。菊の未成年飲酒で思い出したがここには法律など必要すらなかった。
いつも俺たちは何気ない会話をしていた。人間の話、自然の話、犬の話、モノの話、お金の話、そして何よりも民主主義と資本主義の話。これは菊が特に好きな話題で、そこからこの菊と名乗る男は決して不幸があってここにきたのではなく、あまりに頭がよくてここに来たのだと理解した。
俺やあいつが三十二年もかけて至った絶望にこいつはもうしっかりと向き合っているのだ。あまりに早熟だ。
そんな菊を観ていると、なんでこいつは産まれてきたんだと、意味のない問いを投げかけたくなる。そもそも人間存在など生命活動に過ぎず、そこに意味など持たせようとするからしんどくなるのだが、無性に菊が産まれてきた意味を考えさせられた。
いつも口癖のように言っていた。
「僕はあまりにやらなければいけないことが無い人生だったのです。学校の成績もスポーツも、恋愛も、あらゆるコンテストも、プログラミング技術を活用したモノづくりも全て簡単で、上手くいきました。失敗などしたことがなく、想像した通りにできます。しかも何の努力もしていません。頑張ったことなんてないんです。」
天才の苦悩か。と俺は思った。俺には到底分からないことだが、“やらなければいけないことがない”状態の辛さは痛いほど分かる。
そんなこんなで更に半年の月日が経った。いつも通り俺はウヰスキーを飲み菊はビールを飲んだ。その夜、菊は言った。
「なんか、前にも会ったことがある気がするんです。あなたに。いや、似たような男性に」
「僕、その方にずっと面倒見てもらっていたんです。家の近くの小さな古民家みたいな居酒屋の二階で国語をいつも教えてもらっていたんです。その方は東大卒業の方で受験勉強は得意だったので教わっていたのですが、いつも話は世の中の色々な事象についてでした。」
俺は直ぐに理解した。背筋が凍ることも鳥肌が立つことも無く、ただニヤニヤと笑みを浮かべて。何しろそいつは間違いなく、あいつなのだから。あいつはいつも言っていた。あいつにそっくりな少年がいて人生を教えてやってるんだと。
あまりに嬉しくなり、俺は再びここでのことを書き出していた。
あいつが教えていたのは間違いなくこの目の前にいる菊に決まっていた。こんなにもあいつに似ている人間はいないし、そんな居酒屋の二階で中学生を教える人間なんて世の中探しても数人だろう。
俺は不甲斐なくも、恥も外聞も捨ててあいつとの全てをこの菊と名乗る男に話しだしていた。夜が明けても、その次の日の夕日が沈んだ後も、俺も菊も興奮してあいつの話をずっとしていた。
ついに体力の限界を感じ、もう寝ようというその最後に菊は聞いた。
「今はどこで何をされているんですか」
俺は正直にあいつの死にざまを全て説明してやった。どれぐらいの長さの刃物を使っていたのか、場所はどこか、どのぐらいの広さの部屋か、どこを刺して死んでいったか。全てを、まるでその場を再現するかのように詳しく説明してやった。説明してやらなければならないという想いに強く駆られた。
「そうでしたか」
話を聞き終わると菊はそう言ってしばらく黙っていた。そして突然立ち上がり、おやすみなさいと言い、自分のベッドへ向かった。
翌日、菊は姿を消していた。俺は何となく分かっていた。菊はきっと同じ様な死に方を選ぶんだろうと。菊が唯一まともに悩みを打ち明け、相談し、慕っていた、世の中で唯一の人間の後を追うのだろう。
旅立ち
俺は菊がどこかへ出ていった後も同じ宿にいた。そこはいつもと変わらない日常が流れていた。いつも通り朝から夜までベッドで過ごす人もいれば散歩に出て翌日帰ってくる人もいればいつも通りアルコールとドラッグを仕入れてくる人もいた。
そんなある日、また日本人が来た。俺はいよいよ日本人であることに疲れていたのでなるべく話さないようにしていた。
日本人というやつはこぞって疲れた顔をしてそのくせ目つきは鋭く、最初は誰にも寄り付かないような態度を取りつつそのくせ何か一つでも共通点を見つけるとまるで今まで親友としてやりとりしていたかのように振る舞う。
俺はそのどこか機械的で人間の皮をかぶった様な振る舞いが嫌いだった。最初から裸でぶつかってこいと思う。
いつも決まって私は人見知りだなどと自分の恥ずかしい特性を臆面もなく吐き出してくる。自分は弱いですというレッテルを貼ることが美徳だった時代から、その精神だけは抜き去られて、ただ努力しない言い訳のためだけに使われている。
そんなやり方がどうにも気に食わない。小賢しいやつらばかりだ。
俺は何となく新しい日本人とは絶対に一言も話したくはなかった。そいつは俺も知っている有名な女優Yだった。確かめるまでもなく女優Yだった。
そんな彼女がなぜこんなところに来たのか。そういう発想をし出す俺は俺自身にむかついた。同じ人間でしかないのにそんなくだらない偏見を抱く自分に改めて嫌気がさしたのだ。
今更何を人間に期待していたんだろうか。その女優Yが華やかな生活を送らなければいけないような期待をしている俺みたいな人間が彼女を苦しめるのだろう。俺は加害者だと自分を強く責めた。同時に彼女に俺が日本人で彼女のことを知っているはずの人間だと思われる前に席を明け渡すことにした。
彼女がここに来たということはそういうことに決まっているのだから。俺はここにいてはいけない人間だった。
そんなありきたりな理由で俺はこの安息地の様な場所を旅立つことにした。旅立つことにしたというと格好がつくが、その実、旅立たなければならなかったというのが本当のところだろう。俺にはその状況はとても耐えられなかったのだから。この場所にまさか四十八になるまでの十五年間いるとは想像もしなかった。
どこに行くとも決めてなく、俺はとりあえず街に出た。アルコールとドラッグの調達が行われる例の街だ。名前も知らないこの街。金も行く当てもない。まさか今更途方に暮れるとはなんという悲劇だろうと自らの、本当は自ら選んだはずの、この境遇に悩んだ。
まずは食料と凍死せずに済む状況を確保した方がよいとまっとうに考え、近くのレストランや宿を手あたり次第あたった。二十軒ぐらい回った時、俺は自分が自分に執着していることに改めて気が付き、辞めた。
そこからは大通りに出て、ひたすらヒッチハイクを行った。
この土地のヒッチハイクは簡単なもので、三台目ですぐに乗せてもらえることになった。とりあえず南へ。それだけ告げた俺を何食わぬ顔で乗せてくれたのは五人家族だった。親父に母親、子供が三人といういかにも幸せそうなこの家族。よくも見ず知らずの汚いなりをした俺を乗せてくれたものだと感心しながら礼を告げて乗り込んだ。
この家族は南米コロンビア出身の出稼ぎ労働者で、世界的に有名な企業でひたすら倉庫作業をしているという。今は長期休暇中とか言っていた。倉庫作業員にも長期休暇があるのか、ここでは、などと思いながらうとうとしてきた。
ひと眠りした後何となく“寝ていてすみません”という感覚で謝って英語が苦手な家族との会話を始めた。と言っても特筆すべきことはなく、叔父があの店のオーナーだとか昔は靴も履けなかったとかどこの国に行っても聞く同じ様なことばかりだった。
昔は学校に行けなかった、俺は頑張ってこの地位にきたといった類の話を聞くのはもううんざりしている。そういう話をする奴に限って今その様な状況にある人間のことなどどうでもいいと思っているし、努力不足だと思っているし自分の成功が自分のおかげだと言ってやがる。
まぁそんなこともどうでもいいのだ。と自分に言い聞かせてしばらくまた黙っていた。運転中の父親は突然俺を家に誘った。何でも今日はこの辺りに住んでいる友人を呼んでのホームパーティーが行われるとのことだ。
本当はとても嫌だったのだが断ることが出来ずに彼らの家に行くことになってしまった。
家には十人掛けのテーブルとアンティーク調に統一された家具一式、椅子が綺麗に並んでいた。どこの国の何の意味があるかよく分からない人形がたくさん置いてあった。こういう人形の意味を聞くような振る舞いは昔から苦手で、というより興味もなく、大いに説明を受けるのだが、適当にうなずいて済ませた。
食事は正直に言ってとても美味しくなかった。固くなった肉とコーンと豆とジャガイモが盛大に大皿に載せられていたのだが、固いだけではなく冷めていて何もおいしくはなかった。
全員食事中はあまり話さずに食べ、一通り食べ終わるとコーヒーや紅茶を飲んでいた。俺は昔から夕方以降カフェインを取ると眠れなくなるので水を飲んでいた。
あまりに食事を残していたのでとても心配され、美味しくなかったのかどうかを聞かれたり体調が悪いのかと聞かれたりしたのだが、とりあえず笑って過ごしていた。
そんな俺にとっては何でもない時間は過ぎ、その家を後にした。
何も思い出したくない変な時間だったように思う。
今となってはなぜこの時のことを思い出し、わざわざ書いているのだろうかと思うぐらいに何でもない時間だったように思う。
何かの賞に応募するために文字数でも稼いでいるのだろうかとふと一人笑みをこぼした。
二度目の諦め
あのオーロラが見える宿を出て既に三年の月日が流れた。
俺は南米に流れ着いていた。求めるものは結局いつも変わらず、北に居たときに泊まっていた宿と同じ様な宿に流れ着いていた。
この宿に着いて一年になる。その一年間、ほとんど何もない時間を過ごすことができていた。あのかつての哲人皇帝マルクスからしたらとても羨ましい状況だろう。
俺はとても満足していた。俺のことを知っている人間もあいつのことを知っている人間も、日本人すら誰一人として来ない、絶対的に来そうにもないこの状況にとても安心していた。
そんな時、とある日本人が訪れて、などと言うことも無く、しっかりと二年目も過ごせそうだなと思える、そんな状況だった。
本当に幸せなことに、それから幾分か何事も期待外れな出来事、例えば言葉が通じる人間が来たり、俺のことを好きになる美女が現れたりすることもなく過ごせていた。
そしてまた幾分かの時間を経た。そしてまたそれを繰り返していた。俺の心はほとんど幼児のそれの様に解放され、純粋に今を生きているようだった。ただそのまま、俺はここでの時間を過ごしていた。
今、俺は八十年という年月を、この地球に生を受けてから過ごしてきた。三十年生きたときには後五年で死んでやろうなどと思っており、実際にその年になると今度は四十の時までにはなどと考えていたのだが、なんだかんだ自分で自分の時の流れを止めることなく八十年という時間が過ぎていた。
別に生き延びてしまったという感覚はなく、かといって生きていて良かったなと思うことなど何一つない。いつからかそんなことを考えることもなく時に、自然に身を任せて生命活動を行っていた。
それは恐らく誰もが羨むような在り方だったように思う。別に他の人間がどの様に生きていようが、それがどれほど自分で選んだという自己意識を持っていようが、結局人間なんてものはいつも生かされている生命体に過ぎず、そこに一切の意味などない。
だからそんなことを考えて苦しんで自殺することなど何も偉くはないのだ。
そんなことをあいつは良く酒を飲みながら語っていたことを思い出した。あいつのことを思い出すのは久しぶりだった。
今日、偶然にもあいつと同じ生年月日の俺は丁度八十歳になろうとしている。誕生日や年齢を覚えていることが不思議に思われるのだが、無意識に時間を守ってしまうことの様に幼少期からの習慣として毎年思い出してしまうのだろう。
誕生日なんてなんの意味もない日になぜか毎年お祝いをする。それもいくつになってもだ。きっとバレンタインデーの様にどこかの金儲けしたいやつが勝手にそうしたのだろう。
別になんでもいいのだが。
しばらくして俺はふと思った。
「今日死のう」
生きる
あの夕焼け、オーロラ、雪、山、魚、人、黄色い虫、狐の足跡、海、音、バス、食堂、鳥、虹、寺、女、ジーンズ、実家、絵画、後頭部、地下鉄、パワーポイント、飛行機、爪、ノート、子供の笑顔、サリー、火、死体、兄弟、野球ボール、障害者、青い服、水たまり。
この人生でみてきた何もかもを思い出した時、俺は急に涙を流し始めた。そして急に大声で叫び出した。
「もう何もいらないんだよ。なんで誰も分かってくれないんだよ。なんでこの意味のない人生の中で同じ人間が人間を殺さなければいけないんだよ。なんで世の中を平等にしようというリーダーは成功できないんだよ。自由をはき違えるなよ。理性があると信じるなよ。感情に身を任せるなよ。なんでだよ。なんでいつも極端なんだよ。俺は人間代表でも何でもないんだよ。お前もただの肉の塊なんだよ。なのに自分が主人公かのように偉そうにふるまうなよ。何で文明何て作ったんだよ。なんで不平等を無視して生きていけるんだよ。お前のそのお金を得る手段によって苦しめられるやつがいてもいいのかよ。なんでだよ。なんで俺の言葉はいつも誰にも届かず、分かりやすいバカげたものだけだ溢れるんだよ。民衆なんてものに幻想を抱くんじゃないよ。衆愚政治だよ。いつもそうだよ。なんで気が付けないんだよ。あの世界大戦だって民主社会のもとで行われたんだよ。なんでそんなに極端でいられるんだよ。想像力はどうしたんだよ。人間は虚構を創る力があるんじゃなかったのかよ。虚構を創る想像力をなんで、なんでもっと、このふざけた世の中を少しでもまともにするように使えないんだよ。いちいち足を引っ張るんじゃないよ。まっとうに真摯に謙虚に努めている人間をいじめるなよ。お前のちっぽけな薄汚れた金のためにお前の人生を使うなよ。もういいよ。俺は何も期待しないよ。ただ俺と関わらないでくれよ。絶対にだよ。お前みたいな汚い人間、想像力のかけらもなく、心を痛めることもできない人間なんかと一緒にいたくないんだよ。全部金かよ。この拝金主義野郎、ぶん殴らせろよ。もう誰かを苦しめたくなんてないんだよ。わがままに生きているだけで誰かを傷つけ悲しませ、苦しませるなよ。俺に個性何ていらないんだよ。やめろよ。全てやめろよ。今すぐだよ。もう、なんで生きているか、なんで死なないかなんてどうでもいいんだよ。死んでしまえよ。醜いままで死んでしまえよ。なんで俺は綺麗になろうとしてたんだよ。俺だけ綺麗にしようなんて人間に対しての裏切りだよ。気持ち悪いんだよ。死ねよ。今すぐにだよ。悔しいよ。本当に悔しいよ。どうせ世界は変えられやしないんだよ。目の前の子供の人生は変わったかもしれないよ。それがなんだっていうんだよ。くだらないんだよ。未来に託すなよ。今動けよ。逃げるなよ。いいか、やるなら絶対に逃げるなよ。未来に託すなんて臆病者がやることなんだよ。世の中所詮、愛情不足かそれ以外かだけなんだよ。分かったら目の前の大切な人を抱きしめろよ。好きだと伝えろよ。それだけで人生は十分なんだよ。何にも目もくれず、お前が愛する人間たちにそれを伝えろよ。たったそれだけのことをしろよ。なんでだよ。たったそれだけのことを全人類がしてみろよ。全員が繋がって全員が全員を愛せよ。それでいいじゃないかよ。なんでこんな簡単なことができないんだよ。死ねよ。俺」
・・・・・・・・・・・・
完
二0二二年十月十六日