決別 ~努力できる環境にある人たちへ~

生きる

 若者が政治に関心が無いことはどのような意味で課題なのだろうか。

 誰も知ることができない未来について、予測不可という思考放棄した言葉を用いつつ若者にはこれからは君たちが未来を創るのだから考えて行動し、政治に関心を持ち投票しろという。

 そもそも政治への関心など日常生活に置いて持たなくてよくなった社会はどういう意義があるのかを問い直した方がよかろう。

 飢餓状態になく、直接、間接的な意味で死に至るほどの差別を受けておらず、知恵を身に付けるための読み書きそろばんという基礎教育にアクセスすることが基本的にはできる状態。さらには多くの国よりもどこか優れているとされている状態。月に何着かの服を購入することができ、半年に一回以上は外食もできるし、雨は侵入しない建物に住んでおり、虫に苛まれて眠れない夜を過ごすこともない。

 それなりに不満でそれなりに満足した状態での生活。

 この社会の中はさらに資本主義になり切れていない状態で資本主義社会であると信じ込ませており、民主主義が完遂していないにも関わらず真っ当な民主主義社会であると信じられていることが多い。

 民衆は自分の生活は主体的に選んだという感覚もありつつ努力すればお金を稼げれば何とかなるというなんとなくの感覚を持っている。同時に社会主義的福祉国家らしい制度のおかげで自己破産しても職を失ってもセーフティーネットにアクセスできる環境が整備されている。一部読み書きもできるのにわかりにくいと言って制度批判をするものもいるが、努力不足である。

 いつからかこの社会では伝え方や個性、結果、アウトプットというものを重視するようになったらしい。全員を起業家にしようという勢いの教育も行われている。

 大人は自分も苦労を経験したのだから次の世代も苦労したほうが少しはいいだろうという考えから離れ、数が少ないという理由からか、年金制度を支えて欲しいからか次の世代をまるでお客様でもあるかのような扱いをするようになってきた。

 さらにこの次の世代に属する人は先の社会からの要請に加え、手元にいつでもスマートフォンを持ち、どのような情報にでもアクセスでき、発信することができる道具を持っている。

 これらのことが次に示すようなもはや手の付けられない状況を産んだ。

 まず伝え方偏重の教育により知恵の前提となる知識を身に付けること、知らないことを正確に理解して租借する力、すなわち理解力を身に付けるための時間を削った。例えば古文は学ぶ意味が無いという学生は多く存在するだろう。しかし自分が操ることができない言葉を習得し、それを用いて文章を読み、知らない世界を味わいつつ想いを馳せることは、理解力に加え、情操教育にも寄与するだろう。もう一つ理解力を削り続けているものに、短時間で学べることになっている映像コンテンツがある。過去の人間が数百という紙面を書けて記載した内容をたかだか十分で学べると言うのである。そして知っていると感じられる状態にまでもっていく。十分でその内容が学べるということは今まで数百ページ読んでいた人間やそもそもその作者は知性が足りなかったということになるのだろうか。私にはそうは到底思えない。

 知識を身に付ける前にアウトプット、結果が求められ、十二にも満たない少年少女にまで結果を求める。当然天才というものは存在し、それはもはや別教育をするという意見は理解できるが、大半は天才ではないから天才が天才と呼ばれるのである。そのような天才ではない人間が知識もなくできるアウトプットなどどのような意味があるのだろうか。人前で緊張せずに話せるようになることなどその内容に根拠と自信を付けた状態の大人になってから身に付ければ十分である。なぜ年齢が低い人間が、産まれてから過ごした時間が短い人間が目立つことがそこまで重要なことなのだろうか。はなはだ疑問である。子供はエンタメの道具などではなく、これからの社会を共に築いていく仲間である。議論をするための知識、そこから生まれる知恵を十分に身に付けていない人間が築く社会とはどのようなものだろうか。

 全員がどことなく不満を抱えながらもそれとなく生きている社会に幸せを感じられないのが人類である。それが人というものである。絶望して自殺するのが人間である。そのような存在に私は一切期待しない。

フェミニストは男を集団として否定しだし、男は相手の気持ちを考えずにセクハラをする。くだらなくて付き合ってられない。

 誰にどの様な影響を与えるか、マイナスの影響も含めて考えることもなくただお金を増やすゲームをしている新興企業などどうして私が関心を持つことができるだろうか。

 何もいらない人間にかまっている時間などない。

 私の目の前には外部環境が原因で努力することができないどころか、外部環境の変化により死と隣り合わせに生きている人間たちがいる。

 この一つしかない身体を道具として使って何かをするのであれば、私はこのような人間が死ななくてもいい状態を創ることに全身全霊を賭ける。

 以外と誰かに支援された側の人間は善い感性を育みやすい傾向にあると信じてその先は私が支援する人間の未来とやらに託そうと思う。

  地球環境を護ろうという正義。これはどうも有無を言わさない感のある正義である。環境を破壊してもいいでしょうと唱えて一定の支持者を得ることは極めて難しい。保護活動として植林活動やフードロスを防ぐ活動などがあげられる。

 そもそも産業革命以降かつ観測可能になって以降のデータのみをもとにして人類の活動が与える地球への影響を絶対視し、地球環境を破壊する活動を敵として定めてその論理は展開されている。これは事実なのだろうか。

 仮に事実だとして植林活動を実施し、二酸化炭素の吸収量を増やし、酸素の供給量を増やすという活動をするのは論理的には正しいのだろう。実態として、発展途上国としてレッテルを貼り付けた土地に対して植林を行う活動も多く行われている。その現場はどうだろう。周囲に十分に木々が生い茂っている状況かつこれから発展のために木々は伐採される状況だ。そのような場所に植林活動を行うことは発展を阻害する行為に他ならない。関東平野を切り開いている途中に地球環境保護のために善いことをやっているという正義を振りかざす集団が植林活動を行い、切ることが難しいように保護柵を作ったらどうだろう。その土地はこれから商業活動を行ったり、住居を建てたりする可能性が十分にある土地である。その時現場の人間はどう思うだろうか。邪魔である。しかし寄付金を受け取るべくそのようなことは一切口に出さず、けなげにその木だけを護り、周囲の木々を切り倒していく。この活動にいったいどれほどの価値が、地球環境を護るという大好きなお題に応えるためにどれだけの意義があるというのだろうか。

 フードロスを本気でいうのであれば明らかに供給を減らす必要がある。そして言うまでもなく供給は需要によって左右される。それに対してフードロスを減らそうという取り組みは、残さずに食べることであったり、すでにある料理、食品に対する供給を創ったりしている。無料配布などは後者の取り組みである。場当たり的に自分の影響の範囲だけをどうにかするのであればそれでよい。ただ、地球環境を護るというお題目のためにフードロスを減らしたいのであればもう少し広く、長期て考えて行動する必要がある。

 客がレストランの食事を残したり、仕入れた食材の廃棄が増えたりした場合、論理的判断ができる飲食店では供給を減らし、損をしなくてもよいように行動するだろう。その結果食材を仕入れる業者も供給を減らさざるをえなくなる。その結果環境を破壊する行為、食肉、野菜を生産し、提供する行為も減る。このようにして地球環境を護ってはどうだろうか。

 とはいえ地球環境を護りたい人は優しい人であり、この結果農家の所得が減ることに対して甘い活動をする。農家も事業者であるならば競争があって当たり前である。気候の影響を受けるとはいえ技術を駆使して生産量を調整したり保存期間を延ばしたり提供方法を変更したりすることができるはずである。地球環境保護論者が同時に生産者を甘やかすとどうしてもこの資本主義的な努力の機会は失われる。その必要を奪われている。

 挙句の果てにあ頑張って作ったから買ってくださいというお涙頂戴なストーリーで売ろうとしており、それが社会貢献などと言われることさえある始末である。このように努力を怠った甘えを続けて何があるといのだろうか。努力を怠ることでうまくいかないという顛末を迎える機会すら奪われている社会に対して私が主体的に及ぼす影響など毛頭ない。

 

 

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