人間は喜怒哀楽という感情があるというが、私が観るに嫉妬というものも基本的な感情と言えるのではないかと思われる。ちなみに私は大学生の時、京都でふとした時に「怒」という感情は不要だと感じ、以来「怒」を感じる際は客観的に自己を眺める癖を付け、消化している。
嫉妬に戻る。
それはごく一般的に異性間の間で発生する恋愛の様なものもあれば地位、名誉、金銭面によるものなど様々な背景による嫉妬という感情、またそれによる行動が観られる。
その裏返しにあるのは「私だってこんなに頑張っているのに」という自尊心・プライド、近年よく耳にする言葉を使えば自己肯定感なるものをある程度保持しているからであるからだろう。
100%絶対的な自尊心、自己肯定感があるのであればおそらく嫉妬という感情は生まれない。
なぜなら嫉妬は必ず自己以外の他社との比較、それが実在するか否かにかかわらず対象との比較、の上で発生するものであり、その比較の際に自己の方が何かしらの要素において劣っていると判断されているから生じるものだろうからである。
当然この100%ではない自己に対する肯定、比較による劣等感というものはマイナスに働くようなものではなく、悩みながらもそれをバネに努力をし、克服していくケースも実際に多くあるだろう。
しかし残念ながら嫉妬が他人へ害をなすケースというもの往々にして見受けられる。
例を挙げるまでもないが、あくまで私が耳にしたケースを挙げてみる。
私はインドの田舎で勉強したくてもできない人に対して勉強する機会を提供する活動をしている。
そして近しい地域にて同じような活動をしている他者も多くいる。その中で私の親しい友人が、ある時高額の寄付を受けた。その方は真摯に活動をしており、私が見る限りは誠実な活動に見えた。
その後、高額寄付を受けたことを知った同じ村の教育活動もする活動家の人が夜中に電話をし、記載することが憚られるような言葉を浴びせる時期が続いたと聞いている。
寄付を得たことに対する嫉妬が生んだ妨害なのだろうと思われる。
こういった例を含め、同じような目的のもとで活動している人が妨害行為をすることにすら至る嫉妬について、自覚せざるを得ないと考える。
当然自身が嫉妬をして妨害行為をしないという点もそうだが、嫉妬をされること、妨害行為を受けること自体にも対処する心構えをもっておく必要があるだろう。
だからこそ私は常に「目的」を大切にしており、行動の判断基準を「目的に沿うかどうか」を第一に考え、生きていくよう言い聞かせている。
「外部環境が原因で努力できない人をゼロにする」ために何をすべきかのみを考え、人間が誰しも抱える嫉妬心の様なものに左右されずかつ、そのようなことに左右されて妨害を受けないよう気を配りつつ活動を継続していくのみだ。