年に1度、産まれた日が近づくということ

生きる

誕生日1月前にして想うこと

前提として私はとても幸せな家庭に産まれ、育ててもらい、周囲の友人にも恵まれ、自分がやりたいと本気で思うことを諦めたことはない。
言い訳をして諦めたことならもちろん人並みにはある。それは別に本気ではなかったのでどうでもいいのだが。

しかし33年間という年月を生きてきた割には随分と能力・実績・努力どれもが不足していると感じる。
別に産まれながらに頭が悪いとかそういうことではない。死ぬほど頑張れば東大に行けたしミドルではあるがトライアスロンもできるぐらいの人間として産まれ、しかも餓死する可能性や勉強全くできないみたいな環境に置かれる可能性、テロや戦争などで今日死ぬかもしれないという可能性をいまだかつて1ミリも感じたことが無い。

その様な環境に置かれた人間としては正直随分と「しょぼい」と感じる。
これは何も自己肯定感が低いということではない。
全く逆で、自己肯定感が高すぎるのだと思う。

自分を「しょぼい」と感じるということは常に「自分はまだやれるはずだ」という自己期待の裏返しであって、本当に「しょぼい」だけの存在なら諦めがつく。

しかし死ぬほどの努力をする前に「自分はしょぼいです」と自分にレッテルを貼ることはそれこそ親兄弟友人はじめ自分の周囲の人間に、何よりも自分に対してとてつもなく失礼なことであると考えているのでなかなかそうもいかない。

しかし「しょぼい」。
なんだ33年も生きてきてこの程度かよと自分の目から見ても、先人の功績から鑑みてもあまりにも小さい。

外部環境が原因で努力できない人をゼロにするという明確な目標を達成すべく死なずに生きることを決め、その手段としていかなる枠組みも活用できるものは使おうと資本主義に則ったビジネスもしつついわゆるNPO活動もしている。

人類史がこれだけ続いていてもまだ産まれた場所、生活する場所によって努力したところでどうしようもないと感じる状況が存在し続けており、生きたくてもなくなってしまう状況すら続いている。

そういう状況が可能であれば私が生きているうちに、私も私自身をいち手段として活用しつつ、無くなってくれればいいのだがと思いつつ目の前のことに何とか取り組んでいる。

ただ普段は年齢など大した意味をなさないと考えながら生命活動をしていても、この日本でいう秋というのはその季節に産まれたからなのか、自分の「しょぼさ」と向き合い、絶望を感じ、また絶望を感じるおかげでもう少しどうにかならないのかと自分のケツを叩くよい季節だとも思う。

小学生ぐらいのころは早く大人になってなんか役に立ちてぇなぁぐらいで思っていたが、他人に影響を与えるということは想像以上に怖いことでそれをし続けるための目的が極めてでかいものだとは思っていなかった。

近頃はバースデードネーションというものもありNPO運営者としてはそういった枠組みもがむしゃらに活用すべきという意見もあるのだろうが、なかなか単純に「寄付文化」を創ればいいとは思えないのでどうも悩んでいる。

単純に寄付すればいい、活動しているので寄付してくださいなどと人様やその親族、周囲の方が活動、努力して得たお金をそうやすやすとお預かりしていいものか?と思ってしまうし、適当に寄付することで現場では支援慣れを助長し、怠惰な人間を増やすことに繋がるのであれば寄付などしない方がいいと考えている。

現場の活動を考えない寄付は寄付者側にも責任があり、「よいことをして生きがいになった」その先で課題を助長している可能性がある。それでもよい、そのようなことは知ったこっちゃないというのであればそこまでなのだが。

かつ寄付したリターンに善いものをもらえるというのはそれはもうほとんどビジネスではないのかと感じる。

「どうせ同じものを買うのであれば善い目的のもと活動している団体のものを買う」
という倫理観は理解できるが、果して社会的な責任が問われて意識し活動を求められているいわゆる民間企業のビジネス活動との違いはどれほどのものだろうか。極めて悪質な労働環境や低賃金というのは本当にNPOと名乗る組織では起きていないと言い切れるのだろうか。

この様な購買における選択の中にはある種
「多少質やデザインが劣っていてもよい」
という倫理観も含まれてはいないだろうか。

その場合、現場で働く人は
「これぐらいの仕事の質でも売れる」
と思って慢心しないだろうか。

民間企業・NPO・個人・政治機関などはあくまで枠組みにすぎず、その中で存在し、活動する人間に焦点を当てることが重要だろう。
そうでなければブランディングやマーケティング活動の上手い人たちが勝ち、富を手にする風潮を助成し、そこばかりにまたお金と時間と労力がつぎ込まれ、現場での活動が疎かになってしまいかねない。

当然ブランディングやマーケティング、広告活動といったものは重要だと思うし、その流れがあるおかげで私も含めて多くの人間がGoogleを使えているということもまた事実だろう。

0か1かの話では決してない。
というかそんな話は世の中に存在しないとすら考えている。
世の中に「絶対」など存在しないと思っている。

誕生日その日ではなくなぞに1か月ぐらい前に投稿するというものおかしな話なのだが

バンガロール→プネに向かう飛行機で隣の1歳時と遊びながら

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