思考の跡3

生きる

しっかりと捉えなければいけないのはヒトはほぼ文章が読めなくなり、また同時に1時間を超える説明を理解し続けることは困難になったということである

その様な社会が嫌なら退場するしか道はない

向き合うかどうかの選択肢はいつだって自分にだけは与えられている

かねてから抱いてきた理想の死に方を改める時かと思うが

なかなか死の価値について推し量ることが難しいもので

生の価値は継続という甘えが許されているためのうのうと生きていられるのだが

私というのは恐らく継続ではなく点でありそれは事故死であれ自殺であれ点であるがゆえに価値判断が困難

いつだって孤独と絶望は隣り合わせなのだが

その状態に慣れると心地よさすら覚えるもので

いつどうなってもいいという感覚はイマを生きるという観点だけで言えば相当に強烈な麻薬の様な作用を及ぼす

麻薬の作用をよく知らんがな

小説というものも
もちろんモノによるが

AIとやらが書くのだろうが

そこに作者の歴史と物語の関連性から生まれる情緒が含まれることもあるのだろうか

そこまでいけるならいよいよもって人間の仕事と呼んでいいものは無くなっていくのだろう

後に残るはあらゆる遊び

たった一度の人生

なぜ人攫いや詐欺に時間と労力を費やせるのか不思議でならない

だったら放浪でもしてのたれ死んだ方が一端の人間として生きたと言えるのではないだろうか

所有権を放棄することが人生の第一歩目

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