思考の跡4

生きる

社会の輪なるものに入ることができる人間だとは到底自己認識として捉えていないのだが

その状態で生に執着するというのはこれまたある種の矛盾を孕むもので

自分の命の使い先などと嘯いてみては他人の称賛を得ようとする醜い生き物

それがまた人間らしいということなのだろうな

多数決がうまく機能する前提もなければ

法人資本主義のもとで考えられるあらゆる自由の実態も前提とされない

それで何が政治か
何が社会活動か
何が社会システムか

頭でもうったのか

自分にはできるという全能感は共通してみられるのだが

それと表向きの自信はリンクしておらず

知識も知性も感性も全くと言っていいほどリンクしていない

この全能感はどこから産まれるのか?

取捨選択可能性が増進しているとは思うがそれはただ拍車をかけているだけだろう

60年代ケンブリッジの運営について初めて学んで

当然、資金源がある種搾取によるということを除けばという前提付きだが

素晴らしい事例に思われる

まずもって大学は教育ではなく研究を第一義とする旨はあらゆる日本の高等教育から失われている

思想文化学科にすらその波がきている怖さよ

知とは?

いつだって物理的には逃げる時は前に走っていくのにな

何で逃げるって表現に後退しているイメージがあるんだろうか

逃げた先が楽しければいいじゃないかとりあえずは

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