事実について

生きる

広く事実だとされていること。

それは本当に“事実”なのだろうか。

私はいつからか“絶対”など存在無いと考えるようになり、意識しているか否かに関わらず自身の思考が事実そのものであると捉えるようになっている。

今、日本に少しの間滞在している。

この窓から見える景色とインドの活動現場で見る景色とは雲泥の差がある。

どちらも同じ事実であるように見える。

ところがそれは私にとっての事実であって他人の事実かどうか、ましてインドとされる国、私が見聞きしていることが事実かどうかなど分かりようがない。

だからこそ私は現場にいる重用性は大きいと考えている。

それを事実だと捉え、活動の判断材料とするためには誰かの思考では心もとない。

私が自分の能力を過信しているのではなく、たとえどこかの大変頭の良い洞察力の高い方が言っていることでもそれを事実であると信じることは難しい。

現場にいないと“分からない”のだ。

更に難しいことに、現場には“居続けないと分からない”。

1回目に訪問した時と2回目に訪問したときとでは時も経っている。

その前にそもそも1回目の訪問で見聞きしたことが“事実”足りえないことも往々にしてある。

外から来た人間をヒトはそう簡単に受け入れないことが多々ある。

私は簡単に信頼してもらえるほど大それた人間ではない。

何度も足を運び、滞在すればするほどに新たに“知る”ことが増える。つまり事実が増える。

この感覚は強くある。

なので現場にいないで現場を変えることはよほどの権力者でないとできないだろう。

その変化は恐らく好ましいいか好ましくないかは権力者利益に左右されることだろうが。

ということで基本的に私は今は“インド”という国に居続け、“外部環境が原因で努力できない人”がゼロ人になるか、もう自分が何もしなくてもどうにかなるなぁと心から想えない限りは事実を知っている地にて活動し続ける。

データも科学も”今”を伝える絶対ではないのだから。誰も人口すら把握していない村など腐るほどある。

ミャンマーのクーデターが発生した際、日本にその問題を持ち込まないでくれという声が出たと聞く。

私も見たくもないかもしれないインドの問題を持ち込んでいるんだろう。

ただそもそも私にとって“国“という概念は意味をなさない。

更に見たくなければミュートでもブロックでもアプリ削除でもなんでもすればよい。明らかにその権利は読み手にあるのだから。

私は直接言われたことはないが、“日本も大変な時にインドで活動してんの?”という言葉を匿名で投げかけられた友人がいる。何て意味をなさない言葉だろうと思う。

国ではなく状況で捉えられないのだろうか。ならばそういうあなたは何をやっているのだろうか。せめて人に文句がある時は名乗れと言いたくなる。傷つくのが怖い癖に人を傷つけていい倫理などあってよいものか。

ところで、

“現場が大切“という議論は間違いなく”学問の重要性“”論理の重要性“を決して軽んじるような結論ではない。

私は学ぶこと、論理的に考えようと努めることは非常に重要だとも考えている。

学ぶことというのは簡単に言えば多くの賢人たちが心血を注いで研究している内容を取り入れることであり、それは“今“も含めて過去のことである。

過去のことは価値がないというのはあまりに軽率な結論だろう。

過去と今は連続している。

今、これからを考える上で、人間の営みを賢人がまとめてくれているのであれば、さらにそれに接触できるのであれば、これを学ぶことは“現場のために”非常に有益だと考えている。

なぜなら私の目で見て耳で聞いて身体で触れ、頭で考えられることなどたかが知れているからだ。

それをさらに賢人たちが実施して“知”として提示してくれている。理解に努め、活用しない手はない。

論理に関してもそうだ。今はフレームワークと言われるものも含めて多くの論理構造が手に入りやすい。直感で突き進み、立ち止まって考えることが苦手な私にはこれほど無駄な努力を避けるのに助かるツールはない。

“犬の道”ばかり歩いている私には少しでも人の道を歩く知恵を取り入れることは重要だ。

それら過去の知を自身が捉える事実に対して活用する。

この健康体を持って全身で打ち込む。

日本の隔離ホテルから。

一匹の虫も誇りも、喧噪も聞こえない静かで綺麗で無料で3食付き、バスタブまでついており、ネットも使いたい放題のこの恵まれた環境から。

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