痛みについて

生きる

ヒトは生きるためには痛みが必要だと考えている。

必ずしもケガや病気の話ではない。
もちろんケガや病気を克服して強く生きていくというストーリーも美談として耳にするが、全く同様の経験がなく、健康に見える人にも痛みというのは”必要”であると考えている。

生きている環境によって単純ではあるが、分けて考えたい。

まず日本の様にモノやサービスが溢れ、生きるために必要なものを編み出したり、人のものを奪ったりしなくてもある程度満足な生活をしやすい環境。
ここで必要だと考える痛みは、一般的に社会課題と呼ばれるようなモノだ。
最近は”不”と一言で表されることもあるようだ。
ヒトはマイナス面と言い訳を捉え、作り出さずには生きていけないのかと思えるぐらいこの”不”が言葉として提示されている。

実態としては資本主義的により良い生活を求めているだけでも、まるでそこに”不”が存在するかの様に言葉巧みに作り、資金を調達したり、上手いこと商売したりしている。

その中には根拠がない環境問題や、絶滅危惧種に関する問題という地球規模という大雑把な言い方をするものもあれば、楽するための自動化できそうな無駄な作業を生産性が低いという問題として定義する。
更には途上国の現状を何でもかんでも課題、痛々しいものとして捉えて定義する。

それを解決するために、という名目を自身のアイデンティティとして行動する。
この様に社会に課題がある!と定義し、その痛みを解決するためにという大義名分は、健全な精神をこの資本主義の中で生きるために必要なのだと思われる。

一方で私がいるインド、とりわけその田舎を見てみると全く異なる痛みがあるように思う。

これは私には、本当の意味では、持ち得ない感覚なのだが、死と直面した痛みがある。

貧しくて絶望して自殺するヒトが普通に村にいる。
あのこの親父は自殺した。
ヒトを殺した。
そんな話が普通に聞こえて来る。

それは大きく囲うと貧困という現象が原因だろう。
貧困は資本主義の中では主にお金が無いことと捉えても良いように思う。
このお金が無いことが痛みであり、そのことがきっかけとなり、直接の原因ではない、死という痛みと闘わなければいけない。

こういった地域でのこの痛みは一見すると全く必要ではないし、無い方がいいものの様に思われる。
私個人の感情としてもできれば誰も死なず、殺さずいて欲しい。
ただ、この状況は相対的なお金を巡る競争による勝者と敗者を存在させ、勝者が勝者であり続けるためには膠着もしくは悪化させた方が良い場合すらある。
それはもう言うまでも無いが、安い労働力は資本主義の世の中では大切な力だからだ。

だからこの相対的な関係はヒトが生きるために必要であり、よって貧困と称される痛みは必要とされている様に思われる。

正直こんなのぶっ壊してやりたい。
恐らく多くのマルクス主義に感化されたワカモノ達は近しい想いがあり、暴力にも走った。

ただ、暴力に走る場合は圧倒的に勝ち、ある一定の枠組みで世界を牛耳らなければあまりにも虚しい結果になりうる。
周囲のヒトは傷つき、亡くなり、それでも理想には到底近づけなかったり、逆に弾圧されて遠かったりする。
なのでもはや現状、暴力にうったえることはあまりにも現実的では無い。
それにしたくもないと考えるヒトが多い(と信じている)

そこで解決に至る道として考えられるのは、この痛みは取り除くのではなく、いつのまにか違う種類の痛みに変わっているように見せたり、痛みを隠してしまうことが、もちろん根本的な解決とは呼べないが、方法であると思う。

地道にかつ慎重に影響を及ぼし、自らが受け入れることが出来ない、必要とされている痛みを少しずつ行動と論理によって和らげていくほかないのだろう。

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