ウクライナ情勢を見て戦争反対と支援に苦しむ人へ

社会を考える


せっかく友人と楽しい夜を過ごしているが、どうにも腹が立って仕方がないので断りを入れて文字を書いている。
いうまでもなく現在ウクライナ・ロシアに関して日本の多くの人が関心を寄せ、行動をしたり想いを寄せたりしている
私が(同等なので最上級を使うが)最も感じている懸念は2つ。


1つは現地の方の生活。私自身が見聞きしている訳でも知っている、行動が見えている人が支援活動や報道をしている訳ではなく、何が起きているのかを把握しきれないというのが現状。その生活が恐ろしく厳しい、絶望に打ちひしがれているようなものだとすると想像に絶する気持ちになる。

2つ目はその様な状況の人へ何もできずにどこか苦しんでいる人。なぜか寄付をした人や戦争反対と声を大にして言った人が“絶対善“であるという風潮になっている。この様な事態になると必ず思慮深く考えているけれど日常、目の前のことを重要にされている方が悩んでしまうということが起きる。それはインドでコロナ支援をしていた時にも強く感じた。しかし現場の厳しい方も支援活動をする人間も恐らく何もできないと思い悩んでほしくはない。私の意見としてもその様に思い悩み、自分がいかに小さいと悲観して絶望する必要はないと思う。反対に、その想い悩むエネルギーを「何をすべきか判断する基準を調べるべくこと」に費やしたり、「目の前の家族を、友人を、自分を大切にするため」に費やしたりしてほしいと願う。

社会活動を、“外部環境が原因で努力できない人をゼロに”しることを目標に生きている私はウクライナ・ロシアに対して何もしていない。その内実はこうだ。
寄付をした先の用途、実際の状況、何人がどうなるか、少なくとも何人をどうしたいかすら見えない先に寄付をしようと想えない。それは過去の寄付の過ちからとてもではないが盲目的に人類を信じることができないからだ。

社会活動をしている人間が全員聖人君子だと考えることなどあまりに人間に期待し過ぎている。そんな人間ばかりなら経済活動を優先し過ぎた“失敗“やら人が人を殺す事態など起こらないだろう。人は絶対理性的な生き物なんかではない。

それはどんなに経済界で有名な人間だろうが、権力を持っている人間だろうが、それを操っている人間だろうが、投票した人間だろうが一向に変わらない。程度の差こそあれ、“神や聖人君子”などこの地上に期待する方がバカげている。
全員に感情がある。そして利己的である。利己的でないと言っている人間ほど信用できないものもない。

私は第二次世界大戦以降、多くの国が“人が人を殺さない方が良い世界”というものを築こうと人類が努力してきているように考えている。裏を返せばそれ以前は自国・自らに近しい何かの利益のために殺して殺して時間を費やしてきたのが人類だ。それは事実でもあるだろう。大々的に、大儀を持って人が人を殺さなくなった歴史はそう長くはない。

ただ私はできれば生きたいと望む人間が一人も死ななくていい世界の方が私にとっては好ましい。外部環境が原因で努力できない人をゼロな世界には生きたくても生きることができない人も含まれるし、むしろその人は最優先され、唯一の絶対的に手を差し伸べるべき対象と言えるからだ。

ウクライナへの寄付が軍事活動を大きくせず、人が人を殺さない世界に向けた活動に繋がると絶対的には思えない。もしかしたら寄付で軍事物資を購入し、武器を市民に持たせるかもしれない。難民として国外での受け入れ先を探さずに“人類が勝手に線を引いて決めた”自国に拘って命を落とす人間が増える活動を促進するかもしれない。その様な可能性を拭い去るまえに寄付などできない。私は行動には責任を伴うと考えているが、到底その様な責任を負えない。もしそうなったら自責の念に、あまりの浅はかさに打ちひしがれて自殺したくて仕方が無くなるだろう。

私に今できることは調べ、精査すること。何もしていなくて悩んでしまっている方に対して、それは決して悪い選択ではないと伝えることぐらいだ。


仮に権力という名の人の行動を左右する影響力を持つ存在であったとしたら、一刻も早く安全に生きる場所・食糧の提供・教育の継続・雇用の継続のために尽力するだろう。


とにかく、もし寄付や戦争反対の声に押しつぶされて辛くなってしまう人がいるなら、そんな必要はないと声を大にして言いたい。寄付が人を殺すことだってあるし、怠惰な人間を創ることだって常にあったことなのだから。


戦争をしていない、争っていない歴史を探す方が難しいのが私たち人類だということを勝手に忘れてはいないだろうか?

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