イイコトをしたいんじゃないから綺麗な成功だけを共有するんじゃない

社会活動

共有について

ほとんどの人、少なくともこの投稿を観ることができる環境の人にとって、情報が多く手に入るようになり、場所や時間を問わず多くの事例、研究等の情報を入手できる環境になっている。

私ももちろんその一人であり、“外部環境が原因で努力できない人”がいない世の中を実現すべく様々既存の研究やNGO等の活動事例を拝見している。

共有されていることは公益性がとても高いことに繋がりえる(もちろん悪用の可能性もあるが)と考えている。

この中で私が知る限りでは、“成功事例”すなわち
「この様な活動をしていてこの様な成果が出ました!」
「この様な研究をしてこの様な有意な結果が出ました!」
というものを多く観る。

それは“活動のためのお金をえる”という目的のためには非常に有意義であることは理解している。

実際の現場は失敗だらけの様に思う。
もしかすると私だけが無知で無力で失敗をしているのかもしれないが、その可能性を横に置いておくと、様々な社会活動家や研究者の方も失敗している、もしくは相当の失敗経験、苦労経験を積んでいると想定している。

その失敗事例へのアクセスは非常に難しい状況だ。

現代はあまりに短期的成果が評価され、その評価をもとにお金が注ぎ込まれるため、実現可能性からほど遠い目標を国際機関までもが創り、失敗事例を表に出さずに活動している。

しかし私は、失敗事例は成功事例と同等かそれ以上に表に出すべき事例であると考えている。

なぜなら現場の課題、その背景に向き合うにあたり、不要な失敗をしたくはないと考えているからであり、先人の失敗経験はそれを避けるヒントになると考えているからだ。

“とにかくやってみて失敗してみなさい”

は行動主体本人の成長にはよいのだろうが、現場からしたら悲惨である。

例えば途上国支援に何度もガイコクジンが来て同じ様なプログラムをして同じように失敗していくとどうなるだろうか。

現場の人はそういったプログラムへの期待を失い、希望を失い、今の貧困から抜け出せないと自然と思うようになってしまうこともあるだろう。
その結果これから先より差が広がり、仮にどこかで機会を得ても到底その人の努力ではどうにもならない不平等が生じている可能性も想像できる。

そうならないためには早く大きく不要な努力(Issueから始めよで言うところの犬の道)を避け、成功事例の要素を取り入れつつ、現場の信頼と理解を何よりも大事にしながら活動することが重要だと考える。

結論として、私は自分の活動の失敗事例は現場の尊厳とモラルに気を払いながらも基本的には全て公にしようと考えている。
そのことで1日、1人でも早く大きく課題が解決されていくなら失敗事例の共有は大きな意義を産む。

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