政治への参加

社会を考える

選挙のタイミングでたまたま東京にいた

非居住者でありいわゆる主権者としての政治参加は出来ませんが、日本国民として様々考えますが、何よりも

政治活動に関わり、その中で民主制度のもとで当選を目指す者が

“命を””雇用を”

“守る”

ことを有権者、すなわち多くの民に対して、主権を持つ共同体に対して

“約束”

していることに大いに違和感を抱く。
もちろん今更だと諦念を抱くのは容易いが、諦念は取り急ぎ前世に捨てたという若干意味のわからない感覚を持つ者としては

多数者支配の民主政を貫くのであれば前提として

“主権を持つ人間と共に雇用を守り命を守るために・・・を実行する”

がギリギリ言える範囲ではないのだろうか。

当選は手段であり、その後何をするかこそが”代表たる者”の責務であるという大前提と、私が考えることを主権者へ伝えないことに違和感を拭いされない

そんな前提、分かっている当然のことだ、
またその前提の認識は誤っており、議論すべきだ
というようなことを認識し、議論する人間は恐らくだが、有権者の5%にも満たないような気がする。

その上で、だからこそ、伝えるべきだと、伝えることが”政治活動”だと思う。

直接、短期という視点での課題がどうにも見えにくい国、都、共同体だからこそ為政者はそのものの役割を自らに常に問いつつ、また為政の対象へ伝える責務を負っているものではないのだろうか。

それにしても、東大の宗教学研究室の中で耳にした”選挙には行った方が良い。なぜなら個人の無力さを感じることができる場だから”という言葉は未だに強く残っている

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