そもそも東大を目指した理由は文科省に入って教育を変えようと思ったからであり、その想いだけで高校・浪人と1日13時間勉強していたのにこのテーマについての発信は少なかった。
というより様々考える、想うことがあり、避けていた。
先日とある友人のNGO子供が自ら命を絶った。
メンタルがやられていたとのことだ。
自死はテーマではないのでまた別途書く。ちなみに大学では結局自死の研究をしていたのでこのテーマも避けては通れない。
私が高校生の時に“日本の教育に欠けている”と思っていたのは精神教育だった。
理想は“自律・自責・自助”だ。
意味は自律して世の中のあらゆる事柄を自分事(=自責)として捉え、自助努力をできる人間形成が理想だと思っていたからだ。
今の考えはそもそも教育の定義からして違う。
私の中で
「教育=ある人間が何かしらの作用を受ける」
ことと定義している。
それはもちろん人から作用を受けることもあれば、物質、自然物から受けることもある。
それによってヒトは意識的にせよ無意識的にせよ変化をし、また変化をしないことをする。
一般的に教育として捉えられている、学校教育や職業教育の様なものを私は「教育活動」と呼んでいる。
あくまで作用を及ぼす側が「こうなって欲しい」という想いを込めて実施しているものだと捉えている。
義務教育がどうとか、個性尊重偏重がどうとか、プログラミング教育偏重、英語偏重などに対する議論はひとまず置いておくとして、基本的にそれらの教育活動を実施する人は「こういう人間に育ってくれたらいいな」「こういう人ばかりになったらいいな」という理想があるように思う。
そういったことを考えることは正解や絶対が無いと信じてしまっている私にとってはなかなか難しいこととなってしまった。
ただ、教育活動の受け手目線から見て、この教育活動へ触れる機会があることは非常に大きな意味を持つ。
それに触れたからこそ批判ができ、ヘーゲル的に次の善きものを創ろうと目指すことができる。
しかし“当然ながら”世の中には教育活動に一切触れることができない人もいる。
教育活動に一切触れないこと、それは絶望を抱く可能性が高まることだと感じている。
なぜなら、教育活動というものは本質的に未来を見せ、その未来への到達方法を指導したり、時に放置したりする活動であるからだ。
その未来が見えない、もしくは見えても到達方法が全く分からない状態、さらにそれを自ら取りに行くこともできない状態というのは言い換えると、希望が無く、絶望の状態にもなる。
とりわけ、今の状態よりも悪化する場合(例えば貧困地域での災害)、前の生活の方がよかったと思うことはあるだろう。
ただ、そこからどうしたらよいのか分からず待つだけの人達がいる。
そうでなくとも今の状態がつらく、どうにかしたいと考えていても、それは悩みに変わり、具体的に行動することなく絶望することもある。
この状況を打破するために援助・寄付をもとに学校建設が行われることもあるが、これはもういうまでもないが、目的として教育活動を現場に届けることを強く想い、現場との信頼と行動が無いと往々にして箱と写真上の笑顔で終わる。
絶望状況を無くすために教育活動を現場で実行する上ではどれだけ嫌がられようとも、喧嘩をしようとも、目的を常に共有し合い、行動することが唯一の方法であるように思う。