絶対的貧困者と死との距離

社会を考える

2020年、2021年とコロナによるインドのロックダウンによる失業者が多く死んだ。
もちろん様々な理由で人は死ぬ。こういう時に出される他の理由による死や過去との比較は分かりやすさを伝えるためであって現代と未来にあまり影響をなさないように想われる。

2021年の時は特にひどく、毎日村の顔を知っている“あの人”が死んだ。
コロナによって直接亡くなった人もいる。
栄養状態が悪く、持病を抱えていた人がコロナによって亡くなった例もある。
病院がコロナの対応に追われて持病の治療や薬を得られずに亡くなった例もある。
出稼ぎで働いていたお父さんが失業して実家に数日かけて歩いて帰り、稼ぎ頭から食い扶持になったことに絶望して自殺し、亡くなった例もある。
飢えで亡くなった例もある。

絶対的な貧困状態にあるということは少しの外部環境が原因で死が訪れる可能性が大変高くなるということを“知った”。お勉強で分かっていたことだが、知った。


2年連続のこの不幸な状況に対して、救える命があるのなら、文字通りお金さえあれば救える命がある状態であったので寄付を募り、届けた。1円も手元に残すことなく、1円でも多く届け、1人でも多く早く命を救うためだけに寄付を信頼できる友人達とともに実施した。
1万人近くの人へ食料や医療の支援を実施できた。

多くの人が何かしたいと考え、行動されることを知った。
様々な否定・非難はあるだろうし、“あの団体は”と妬み嫉みも多くあるだろう。
また、“私は何もできない”“私の出せる金額はこんな少額で”とある種傷つけてしまった人もいるのではないかと思う。それを想うと何もしない方がよいのではないかとさえ感じることもある。上手にできない自分を悔やむ。
ただ、私の中での最優先事項は常に“外部環境が原因で努力できない”環境を無くすこと。

それは今日生きたくても生きられない、仕事を頑張りたくても機会が無い、学びたくても機会が無いというような状況に加え、誰かのために何かしたいけどやり方がよく分からないというようなものも視野にある。

インドの田舎において1000円の支援は家族5人が最低限食べるだけの1週間分くらいにはなる。それがその家族5人、私たちと何も変わらない人間5人にとってどれほど大きいことか。支援額が少額か多額かは受益への影響度合いが判断軸になると思っており、100円だろうが50万円だろうが、各々が自己を犠牲にすることなく、“届けたいから支援する”というエゴのもと支援していけばよいのかと思っている。

少なくとも現場で活動することを選んだ私は完全に100%自分のエゴで選んでいる自信がある。単純に外部環境が原因で努力できない人がいることに腹が立ち、悲しく想い、何もしないでいられるほど我慢強くない性分な個人のエゴでしかない。その活動をするために当然自分が健康でいられる生活を選択し、私は決して自分も粗食して不衛生な環境で住もうなどと思わない。それによって自身の健康を崩したら何もできない。そんな風にはなりたくない。それこそもどかしくて絶望するだろう。

デジタルの力を使い、職業訓練を実施し、2021年8月に絶対的貧困から抜け出した家族も出せた。

勉強したくてもできない、教育を受けさせたくてもできない250名ほどの子供へ教育の機会を届けた。

絶対的貧困、世界10億人ぐらいはいるのだろうか。
統計には決して乗らない人はその倍はいるんじゃないだろうか。
私や友人も含めた誰からの支援も届かない人間はどのくらいいるのだろうか。

地球上の人類全員が“外部環境が原因で努力できない”状態では無くなることが私の具体的な目標であり、最初の活動拠点としてインドにいる理由であり、今のAmegumi Indiaという会社で取締役として働かせていただいている理由であり、NPO団体結び手の代表理事である理由。

私がやってやろうなんて気持ちは毛頭なく、私もこの活動に積極的に参画させていただいている1歯車だという認識。

少しでも大きく早く回る歯車として頭と身体を使っていく。

こんなにも贅沢な生きる目的があるのだろうかと思う。

同時に早く誰かやって、そんな、外部環境が原因で明日を見れない、人間がいない地球にしてくれないかなとも思う。
過去の人も現代の人も未来の人も多くの方と協業しながら活動し、私もそんな“誰か“で居続けようと想う。

バンガロールからコインバトールへの飛行機の中でのポエム
※ポエムと打つとポエニ戦争という予測Wordが出てくるのだが、これなんだっけ?(笑)
後最近はちょっと睡眠が上手く取れないので詰め込まないように頑張ってる。

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