“人と活動”について何かを判断するとき、私はどちらかというと“人”で判断をしないある種冷たさを持っている基本的に人は変化をするし、主体足りえない他人をコントロールすることなどできないし、翻って、期待することもできないと考えている。
なので何かを判断するときにはその人が“個を超えて持っている目的や発揮する価値”、平たく言うと“できること、やりたいこと”と、私のそれとをすり合わせるという作業を脳内でしていることが多い。
(そのせいで斜め上から目線になってしまうのだろうが)
今回、日本に一時滞在をしていて“寄付”を実行する方々、私にしてくださった方々と多くお会いしながら寄付についてのお話をお伺いした。“お前が信頼できるから”“あなたの活動を応援することが私の社会貢献”その様なお言葉を有難くもいただき、至極僭越で恐れ多いなと感じる一方、非常に勉強になる。
私が寄付をすると判断するとき、またお預かりした寄付を活用する先・方法を判断するとき、“どの様な人をどの様な状態にすることを目指していくら何に必要なのか”という点と“今まで(寄付を募る前までに)にどの様な活動を上記の視点でどの様に活動しているのか”という点が明確でないと寄付をしない。
現在トンガへの寄付先を当たっているが、この2点を満たしているなと想え、実行したいと判断できる先が無い。あれば紹介いただけるととてもありがたい。寄付をする目的は私の中では常にその先の人の生活・人生への影響を考えたものという想いが強い。それは支援慣れの現場や研究をみてきたことに起因する。とりあえず寄付という判断は私にとって難しい。
少しの日本滞在を終え引き続きインドの現場に戻り、目の前で課題に取り組みつつさらに追加で起こる課題へ取り組んでいきたい。
そして久方ぶりに大きな疲労感が抜けて頭が言葉で溢れてくれている自由に”言葉”を置き添えて仕事に戻ろう
「最後に守るべきものいまここに言葉はある種大いなる自由を手にしているがそれはあまりに惜しい軽さになっているあまりにも短絡的で快楽的なものばかりが”数字”という影響力を持っている」
「断絶などと言う言葉を使う時はその程度を問題にしないのであればそれは何も意味をなさない真の断絶などありえない常に多様な状態が内包されている」
「SNSなど自己顕示欲のための装置でしかなくそれが集団としてであれ個人としてであれ目標がいかなる場合であれ最終地点は自己愛だからSNSで匿名の無責任な存在から否定されると傷つく人がいるのだろう」
「旧正月をアジアの国として祝うべきという議論があるのか地球に生きるただの1個人としてはその議論で揉めること、怒りが生まれること、やたらと使われている言葉を用いるのであれば”断絶”が生まれることそれを憂うばかりであると同時に全く議論に入る気になれないので静観してしまう」
「勝手に可哀想というレッテルを貼ってエンパワーメントすることにより”いかなる場合も自律した人間である”ことが求められることは果たして社会として、個として本当に素晴らしいことなのか疑義を呈して議論すべき課題の様に感じる」
「教養を舐めるように学んでそれを知識としてお披露目する行為でお金を取るその人たちがポスト資本主義という、幻想を語るデマゴーグによる衆愚形成過程を見るようあるニュースサイトが文字で実施していたことを音声でしているだけかそれでIT×教育スタートアップだと」
「貧困層が作ったから、受刑者が作ったからその様な理由で行わられる消費とはいったい本質的には、かつ長期的にはどの様な価値と意味があるものなのだろうか」
これは暴言吐きポケモンになっているパターン
「既得権益がぁー若者は潰されてるぅじゃねぇその人達が築き上げてきた今に生きている事実を認めた上で変えたいことがあるならそれ相応の覚悟で変える活動をし続けろよ簡単に何でもかんでもできると思いおって知性も道徳もねぇよ」