日本において教育が業界として認識されビジネスの市場となって久しい。
偏差値の高い有名大学に行って利益・売上・市場シェア・株価といった指標でみてそれらが高い会社に就職するための受験
それを上手にクリアするためのヒントを与えるサービスがあふれて久しい。
手に職をつけるためにスペシャリストになるための予備校があふれて久しい。
そして学校経営自体も生徒はお客様となり集客をするようになると、その先の上にあげたような大学・会社につながることを重視して教育内容が設計される。
これらは全否定されるようなものではなくただの現状だと思う。
私が時代を経験したゆとり教育というものはその成果を既存のテストのスコアではかられた結果どうも間違っていたかのような扱いを受けることもある。
その指標の正しさを検討するための議論がどの様であったのかを問われることは一部でしか行われない。
もっと言えば私たちがいわゆる社会に出て仕事をする前に間違っていたということになっていた。
教育がビジネスの場として設定されるようになってどうも教育自体が短期的成果を求めるようになっているように思われる。
もはや教師すら漢文や古文を教えることの価値を短期的利益で理解させられそうになっているのではないだろうか。
考えるべきはそこで失われたものだと思う。
短期的には意味もない(=上記にあげた道に進むための価値が少ない)とされるがゆえに軽視された「間」や「空間」を無駄として排除したように思う。
それにより情操や文化や精神性や尊厳といったものがどうも失われつつあるように思えてくる。
例えば最近わたしが大変悲しかったことは安倍氏が亡くなったその数時間後にはその功罪を論じてばかりいるあり方だ。
人間がひとり亡くなったその時ぐらい悲しさを抱き、静かにすることすらできないのだろうか。
別に他国と比較してどちらがよいか悪いかを論じる気はないのだが、インドでは翌日、盟友の死ということで祝日となった。周囲の友人も悲しみに暮れていた。
私が東京に住んでいた時、人身事故で電車が止まった時に、誰かが亡くなっていたとしても自分の短期的な生活を重視し、たった今亡くなった命に対して想いを馳せることは少なくなった様に思う。
何をするにも短期的な成果を求め、その目的や精神性を忘れた人間活動はいかがなものであろうか。
効率化すべきはし、間の時を保持すべくはする。
その様な教育の在り方を考えてみたいものだと思う。
少なくとも
「ここまでは行っておかないとどうしようも仕事につけないといった状態」
は脱却できるように努力したい人が努力できる環境を築くために教育活動をインドで実施しているが、すべて競争、すべて効率化、すべて成果で物事をはかるという姿勢により家族をおろそかに、人間関係をおろそかにするような状態になってしまうのであれば私としては好ましくないと考える。
現地の風習・お祭り・祝い事など楽しみつつ、絶望状態に陥らずにやりたげれば努力し続けられるような状態を現地のヒトともに築けたらと思う。
直接的には金にならなくてもやった方がよいことを考えることがその第一歩目だろう。