人間への期待

生きる

私は人間というもの、取り分けその理性などというものに全く期待をしていない。

私がいろいろな人に裏切られたと感じるなどという話ではない。

そのようなものは全て他人に期待した自分に責任があるのであってその様なことは些細なことに過ぎない。

そうではなく、今この2023年6月において33年と半年程度しか生きておらず、インドに5年間住んで活動する人間という極めて短く小さい私という存在にできることがあるという事実そのものが人間への期待を喪失させる。

そうだろう。

人類史であれ文明の歴史であれなんであれ長年の月日が流れ社会活動をする人間というのも無数におり、ビジネスも政治も何であれ人類の営みは行われてきた。

今この時、私がインドの田舎の村に行くとそこでは

ネズミぐらいしか食べることができない人間が生きている。

離婚して追い出されて住むところが無い親子が生きている。

性別が女というだけで外出することも叶わない人間が生きている。

いかなる目標を持ったとしても情報も情報を得る手段も能力も無く諦める人間が生きている。

同時にそこでは外部の人間は誰も何もしていない。

よって活動は拡大する一方。

もはやお金さえあればいくらでも初等教育の最初の機会を提供すること、飲み水へのアクセスを創ることができる現場がある。

たった平成の初めに産まれた何の特殊能力も持たない個人である私でさえそれができてしまう。

同じ人間というのは嘘っぱちか?

自然状態がどうとかなんだとか言いつつ統治者の論理と倫理で定めてきた境目と法秩序は絶対か?

産まれて死ぬだけの人の世に自ら命を絶つ存在を放置することは当たり前か?

それを防ぐために機会を提供する活動を放置することが人間という存在か?

問いへの答えが常にyesであり続けたからこそ放置され続けたという事実がある。

「徐々に良くなっている?」

その言葉を上にあげたようなところで暮らす俺の目の前にいる人間にそのまま伝えられるのか?

待たせるのはいつまでだ?

良くなっている定義はなんだ?

その傾向はどこの誰がどうやって調べてまとめあげた数字だ?

現場の人はこのままの方が幸せだから何もしない?

その笑顔はガイジンが来た物珍しさへの笑顔である可能性はないか?

一体 このまま とは何がどの様な状態であり続けることなのか?

今が永遠に続くことなどあり得ないのに今のままの方が幸せとはどういう論理だ?

情報と経済発展の波は誰も止めないだろう?

じゃあこのままなんてありえないよな?

入ってくるよな?

新しいものや情報や価値観が入ってきたとき、それを目指したい、欲しいと思うだろうな

その時に全く読み書き計算ができない人間に何ができる?

その時に栄養状態が悪くて健康を害している人間に何ができる?

分かっている

その様な問いなど抱かないで寿命を終える人生の方が幸せっぽいことは分かっている

だからといって俺はそれを放置するような器用な生き方はできない

直ぐに放置をしているという感覚からくるストレスに潰されて自ら命を投げ捨てる自信があるね

そんなやつは社会不適合でだから物心ついた時から周りには誰一人いないことの方が多かったのだろう

そんなことは構わない どうだっていい

いかなる人間への期待をも抱かず、事実と現実から目を背けずに外部環境が原因で努力することすらかなわず生きていく人間存在に機会を提供すること

それだけ

優しい温かい素敵な人間たちがたくさん産まれて死んでいったこの世界で

私の目にすらたくさん入ってくるその人たちを放置しないだけ

そして分かっている

自分の身体・時間をこの「外部環境が原因で努力できない人のために行使すること」そしてそれは同時にこの身体・時間に対して“期待”を抱いてくださる人が「外部環境が原因で努力できない人に機会を与えさせたいから支援すること」という選択を取ることがあることを。

俺の目が黒いうちはそのいかなる期待も支援も応援も全身で受け止め、全身全霊で活動をする

それ以外に何もないのだから

だから辞めとけって学生時代から哲学だとか宗教だとか倫理だとか思想文化学科に行くことは

この生き方は誰にも勧めたくないね

自分の感情と他人への期待を日々捨てる覚悟を、その孤独の中でもしっかりと毎日目を覚ます覚悟を、他者からの期待と支援を受け止める覚悟を、それを実行する覚悟を持てないのであれば。

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