資本主義の限界論と脱成長とその否定

社会を考える

資本主義の限界がきていて脱成長を論じるという展開が見られるようになって久しい。

また、それを否定するために経済的成長が与える社会的効果(死亡率の低下など)を論じるということもよく見られる。

ただ、いつも感じるのは、そもそも現状の(日本における)資本主義というものは、果たしてどの様な状態を示しているのかを論じる場面が非常に少ない。

何か将来のことを語るにせよ、今を語るにせよ、理想があるにせよ無いにせよ、現状を丁寧に把握、定義せずに語られるその議論に一体エンタメ以上の価値がどれほどあるのだろうかと感じる。

そもそも絶対的な資本主義社会というものが存在するとして、日本はその様な状態だろうか?

累進課税、社会保障の2側面からみても私目線ですらそんなことは無いと思う。

経済成長が社会の課題を解決してきたという側面はもちろん否定するものではないが、当然、それは経済成長のみが1対1対応をする形で解決するためのただひとつの要素となっていた訳でも決してないはずだ。

死亡率が下がりました、その内訳は○○です。と示したその死者1人1人の要素をまとめて最大公約数を取ったとして、果たしてその要素は“経済成長のみ”に集約されているのだろうか。

先に挙げた社会保障、法制度の発展、教育の効果などは本当に要素として含まれないのだろうか。

あまりに短すぎる議論時間の中で大衆に伝えることを目的に安易な議論を展開することは、悪影響をすら与えていないだろうか?

成長支持だろうが脱成長だろうが両極端な議論をするのではなく、各要素を洗い出し、あくまで両極の間に位置する現在を捉え直すことから議論が始まるのではないだろうか。

環境保護についても近しいものを感じる。たとえば服飾産業はよく引合いに出ており、環境を破壊していると言われる。水の消費量が多いという観点から言えばそういう事実はあるのだろう。

ではそれを護りたいと言っている人が来ている服はどの様な価値観で消費されたのだろうか。

その服に使われたものは何で、製造元はどこで、何を使って製造されたものなのだろうか。

そしてそれをどの程度の頻度で廃棄するのだろうか。

そのメーカー、工場が利益を上げ、より生産を増やすことによる影響はどのぐらいのものなのだろうか。

全ての服飾産業が本当に近しい悪影響を“守るべき環境”というものに及ぼしているのだろうか。

女性優先主義に関しても同様で、まるで全女性の意見を代表しており、かつ男性という性に産まれた人間全てに対して意見をいうのも極端に聞こえるし、“高齢者は“という主語や”日本のおじさんは“という主語もそこで括られている多種多様な個人の存在に目を向けない限りはその議論の価値はエンタメ以外に見いだせないように想われる。

人間生活の要素の一部を数字で切り取ったデータというものを神でもあるかのようにあがめ、その活用方法もずさんでは到底議論の俎上にすらない井戸端会議にとどまるだろう。

直近で勉強しているシルビオ・ゲゼル氏の訳者の言葉を借りれば“連想能力”をどの程度持っており、また活用しているのだろうか。

資本主義論にせよ、環境論にせよ、その中で生活する人間に対する連想能力を発揮せずに“極”に人間が存在しているという前提を持って議論することは、何の意味があるのだろうか。

ワイドショーで語るのではなくオトナが議論する上で、前提を揃えるために大量の時間を費やすことは遠回りではなく近道なのではないかと思う。

限界ということを考えるのあれば、“日本が”という主語で語ること自体に限界が来ているのではないかと思ってしまう。

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